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Author:株鳥風月
2003年より株式投資を始める。
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映画『カポーティ』を観る

カポーティは、映画として有名になった『ティファニーで朝食を』などを書いたアメリカの小説家。

1959年11月にカンザス州ホルコムで起きたペリーとディックという2人の若者による裕福な農場主クラターの一家4人の強盗殺人事件に材を取って、彼は犯人の一人、ペリーに肉薄し、“ノンフィクション・ノベル”『冷血』を書く。

ノンフィクション・ノベルとはカポーティによれば「フィクションの技術を駆使した物語風の構成でありながら中身は完全に事実という形式」ということらしいが、ともあれ小説の作者が題材の人物にあまりに接近しすぎることは書き手たる作者=主観と書かれるべき対象である人物との主客が位置が混乱し、転倒することにもなりかねない。
そして、それは作家の「死」を意味するかもしれない。
事実、カポーティはこの小説以降、小説が書けなくなるのだが…。(最後の一冊は未完で終わった。)


「この本(『冷血』)によって私は変わった。そして読者もこの本を読むことで変わるだろう」とカポーティはいう。
映画はこの小説に取り組むあたりのカポーティを描く。



文学とは恐ろしいものだ。

カポーティは犯人の一人に何か感じるものがあって、彼の取材を始める。
本を上梓するまでに5年を要した“つき合い”の中で、もっとも親しい友人に変わらない友情のようなものができてくる。

彼は優秀な弁護士をつけたりなどして減刑にも取組む。

しかし、一方で、被告が刑死するにしても、無罪釈放されるにしても(もちろん、こちらの可能性はほとんどなかったが)その結末が決まらなければ小説は完成しないと考えていた。

被告とのつき合いはカポーティの神経をすり減らす。
同じ感情を共有することが友情というのならカポーティもまた死の恐怖、つまりこの世から消滅してしまう(それが相手か自分かという違いはあるにしても)という恐怖にとらわれていたに違いない。

被告が控訴し、刑の執行が延期されるたびに、カポーティは「これは拷問だ」と嘆く。まるで早く死刑執行を待ち望んでいる人のように。

生きていて欲しいと願うと同時に死を願うという矛盾に引き裂かれた小説家。

改めて思う。小説とは恐ろしいものだと。
でも、いったいどうしてなのか?

カポーティが事件の取材を始めてすぐの頃、殺害された4人の被害者の納められた棺を開けて覗いてしまうシーンがある。
後に彼は恐ろしい経験だったと告白する。

恐ろしいものから遠ざかろうとしながら、もう一方でその恐ろしいものから目を逸らすことができない。
「文学」の恐ろしさはこのあたりにあるのかもしれない。


カポーティはホモセクシャルだったようだ。
この映画でアカデミー賞主演男優賞を獲ったフィリップ・シーモア・ホフマンは、いかにもそれらしく演じている。もちろん私は実際のカポーティを知っているわけではないけれど、実際のところ、たぶんこんなしぐさや話し方をしていたのではないかと思ってしまうほどだ。

映画が始まってまもなく、虚弱体質なのかどうか、弱々しい声で、なよなよした話し方をするこの主人公にとても親近感を覚えそうもなかった。
それが観ているうちに、これはすごいと思うようになってきた。
彼が犯人の男に自分の生い立ちを話し、自分もお前の同類なのだと話し、彼の中にある何かを伝えようとするときの、その弱々しそうな声の中にこそ真実を伝え得る“力”というものを確かに感じることができた。つまり外見の声や態度とは違った、ある種の魅力、あるいは魔力がカポーティにはあったのかもしれない。

彼と仲の良かった映画俳優、ハンフリー・ボガードの妻だったローレン・バコールはカポーティのことについてこう語っている。

「トルーマンのことは彼から聞いていたわ。『やつに会ったら、最初はとても実在の人間とは思えない。しばらくいっしょにいてやつのことが少しわかったら、今度はポケットに入れて家につれて帰りたくなる』と。

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“驚きに満ちた映画”『初恋』

この映画を“驚きに満ちた映画”とまずはつぶやいてみる。

なぜなら、もう30年以上前の事件でありながら、その事件の手際良さとそれに反比例するようなあっけなさ、そして今も「未解決」であること、そして事件後の犯人の完璧な沈黙とにおいて、未だにどの事件との比較も許さぬ孤高ぶりを誇っていた、あの府中3億円強奪事件の謎を、この主人公の女子高生はいきなり「事件の実行犯は私かもしれない」といともあっさりと告白して物語は始まるのだから。

さらに驚くべきなのは、映画の原作となった同名の小説『初恋』の著者、中原みすずは物語を一人称で書くことによって彼女自身が物語の主人公であること、つまり3億円事件の実行犯であることを隠そうとしないことである。

実際、主人公たちの仲間の一人で、予備校生として登場し、エピローグで、後に芥川賞作家になったと紹介される青年は中上健次に違いないと分かるし、、また彼の対談集などを読んだことのある読者なら、映画の主たる舞台となる「B」という名のジャズ喫茶がその本の中に出てきたものだと思い出すだろう。

映画はこうして、この物語が限りなく“真実”に近いものであろうことを、もったいぶることも、秘密めかすこともなく淡々と示していく。

中上健次が事件のことをどこまでを知っていたかどうかは今となっては確かめようもないけれど、彼が紀州を舞台とした「路地」ものを終えて、病を得てもう時間があまりなくなってからどうして新宿を舞台にした物語などにこだわったのかを、この映画から想像してみることは少し愉しませてくれる。

健次の娘で今は作家となった中上紀がこの映画にコメントを寄せていることが、何かこの映画により一層の色香のようなものを添えているように感じられるのは、今は健次も登場人物の多くも時間の彼方へ消え去った中で、あの予備校生がやがてもうけた子が時を越えて、今、目の前にまるで“突如”といった趣で現われ、断絶されていたと思われていた時間が実は細々ではあるにしても連続しているということを再確認させてくれたからだろうか。


ところで、この映画が驚きに満ちているのは何もそのドキュメンタリーなところだけにあるわけではない。
いや、むしろそれ以上に私はこの映画が、湛えている一種のみずみずしさこそを驚きに近い目で見ていた。

というのも映画的なるものはおそらく物語性と相性が悪いのであり、この強烈な力を放つ物語からよくあれだけの映画的な映画をつくることができたという驚きでもあった。

ブログを見ていたら、この物語についての評をたまたま見つけたのだが、その書き手によれば、主人公の少女がただの淡い恋心だけでこんなに大それた事件に加担するなんて信じられないようで、だから彼女と主犯各の学生との間にはそれ以上の何かがあったのだろうと暗に勘ぐっている風なのだ。

実際はどうだったのか知らないが、そんなことどうでもいいではないか、と私は思う。

この評を書いた人は、さらに恋を描き方が「浅い」とまでいっている。

あの3億円事件という大事件に加担する以上、それに見合った背後の何かや恋なら恋で、もっと深いものがなくてはならないはずだと思わせるのだろうか。
しかし、現実世界では人は何の「深さ」もなく、まったく取るに足らぬ理由で人を殺すこともできるし、何の「深さ」も持たずに、一瞬のクリック一つで数十億円を稼いでしまうこともできてしまう。

ある事実の裏側に物語を求める物語性こそが、小説や映画からもっとも遠いものであり、映画や小説を見損なうものであるように思う。


この映画で見過ごしてならないのは雨ではないかと私は思う。

雨は映画冒頭から降っている。
雨の音とその肌にまとわりつくような湿度がある雰囲気のようなものをつくりだしていることは確かだ。
しかし、それ以上に大事なのは雨が映画全編の細部を統御していることだ。そのことによって、この映画は非常にコンパクトで清潔感のあるものとなり得ている。

しかも雨は雰囲気といった柔らかいものとしてあるにとどまらず、物質としてその存在感を主張する。
それは、もちろん事件当日の雨のことをいっているのだが、ここでは映画をまだ観ていない人もいるので、詳細は省くが、この日の雨は文字通り事件の運命を変えてしまうかもしれないものとして(しかも2度にわたって)登場するのである。

もちろん雨はこうしてただ荒々しいものとしてだけあるわけではない。
事実、映画冒頭近くで、刑事が「最近の子は涙一つも見せない」と呟く中を警察署を出て、歩き始める主人公に降りかかる雨は、彼女が大人たちに決して見せない涙と分かちがたい繊細なものだったではないか。

この映画の繊細さはこうした雨の表情を正確に描くところに現われていたというべきだろうが、繊細な表情というなら、もう一つ忘れられないシーンを挙げるなら、それは強奪後、不安と緊張に押しつぶされそうな宮崎あおいが首謀者の男と待ち合わせ場所で落ち合うシーンだ。

男は車の中の宮崎あおいの頭に手を伸ばし、そっと触れる。
男と少女が初めて触れるシーンのこの慎ましさ。そして、この繊細さ。

彼女が待ち望んでいた男の手は雨を隔てて、雨の降らない車内の彼女の頭へと伸びてくる。

二つのものが触れると同時に雨によって隔てられている。
この雨は、その後の彼らの時間をも統御しているかのようだ。

そして一瞬間でありながら、永遠に引き伸ばされるような時間の中の彼女の微笑み。
このシーンによって映画はもう一段、高み昇ることができたと思う。

ここにおいて少女は「深い」ものとはまったく無縁な次元で、どうしてあの事件に加担したのかが何よりも強く語られている。

この映画が驚きに満ちた映画であるのは、まさしくこうしたことによってである。

さきほど「触れる」と書いた。
だが、それは触れることなのか?

触れるのではなく、むしろ重ねられるというにふさわしいこの行為は、たとえばその後に彼女の手が彼に手に重ねられ、あるいは彼女の顔が彼女自身の手の上に重ねられるというように、いくつか印象的なシーンとなって現われるが、もしこの映画の主題が消え行く時間への悼(いた)みにあるとすれば、重ねられる行為は、まさしくその悼みそのものなのかもしれない。



【後記】
映画を観終えて外に出ると雨が降っていた。
もちろん、この雨はただの雨にすぎないけれど、一瞬、この雨はこの映画の時空につながっているのではないかという錯覚に陥った。

この映画で『ナナ』の宮崎あおいではなく、『ユリイカ』の宮崎あおいが戻ってきたことが嬉しく思えた。


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映画『プロデューサーズ』は喜劇なのか、悲劇なのか?

金に困ったプロデューサーが、絶対ヒットしないような、つまらないミュージカルを上演することで金を稼ぐことを思いつくが、意図に反してヒットしてしまうというストーリーなのですが、私にはこの映画自体が、ヒットしないことを目論み、わざとつまらない映画にしたのではないかと思えました。

製作・脚本・作詞作曲はメル・ブルックス。
この人はやっぱり『ヤング・フランケンシュタイン』(76)だけで終わっていたことを確認しました。

ウディ・アレンやスピルバーグもそうだけれど<アメリカ在住&ユダヤ人&映画製作or監督>の4条件が重なると、どうしても複雑なものが入ってしまうことになる。

そして彼らの多くは自分の周囲に張られた網を意識しすぎて逆にからめとられてしまうように見える。

メル・ブルックスは下品と猥雑という武器でこの包囲網を切り抜けようとしているようだけれど、下品で猥雑なことを意識してる人は下品で猥雑ではないとはもはやいうことができないということを、どうして誰もこの人に教えてやらないのだろうか。

ということはおいておくとしても、礼節ある私にはもがいている人を笑う趣味はない。

とすれば、これは喜劇などではなく、悲劇であるといった方がよいのではないか。

それはエリア・カザンが映画に負ったものを一身に担おうとするいささか生真面目な態度から来る悲劇なのかもしれない。

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博士の愛した数式のように美しい映画『博士の愛した数式』

80分しか記憶が続かないという数学者の「博士」はことのほか素数を愛した。
単純で力強く美しいからだ。

この映画を一言でいえば、素数のように美しい映画といえばいいかもしれない。
その美しさをかたちづくっているのは博士(寺尾聡)と少年時代から博士に親しく接していた高校の数学教師(吉岡秀俊)との間に結ばれた、時空を超えた一本の「直線」である。

少し涙が流れた。
といっても深津絵里の演技の下手さが悲しくて泣いたわけではない。

誰かの死や別離があるわけでもないこの映画にどうして泣けたのかに答えようとすれば、それは博士の愛した公式が美しいにもかかわらず、それがなぜ美しいのかという問いに答えるのと同じようにが難しい。

難しいといえば、映画の演技というのは難しいものだ。
だから小津安次郎もR・ブレッソンも演技を嫌った。
演技を完全に排除するためには、いかにも演技をしているという演技をさせることによって、その虚構をあからさまにするしかないと考えたゴダールは役者をカメラの前に立たせて台本を読ませたりもした。

というのに、この監督はどうして深津絵里に演技教則本に書かれているような演技をさせて平気でいられるのか?
監督はきっと深津に、ここは初々しさが出るように演技してね、とかいったのではないだろうか。
そんなことをつい想像してしまうほどに恥ずかしい演技なのだ。

今、演技は難しいといったばかりの口からいうのも恥ずかしいが、ただ一言いっておきたいのは寺尾と吉岡の演技について。

寺尾の抑制された演技のすばらしさについては誰もが認める通りだろうが、吉岡のそれはさらにすごい。
ただなぜ、すごいのかについて私には説明する力がない。

吉岡の演技を“うまい”というのかどうかは知らない。
ただ、それを「自然体」といった言葉でやり過ごしてはならないと思う。

こうして書きながら、つくづく自分の頭の悪さを痛感するのは、自分がふと涙をもらしてしまったのは、吉岡の演技に対してだったのか、それとも先に書いたような無限の彼方からやってきて博士から吉岡へと延びてゆく一本の直線の美しさに対してだったのかさえ分からないからのだ。

最後にもうひとつ褒めたいのは音楽を担当した加古隆のこと。
よかったです。


【スピルバーグの映画『ミュンヘン』について】

今日は新宿で久々に会った友人と高野でバイキングを食べた後、スピルバーグの映画『ミュンヘン』を観た。

さすがにスピルバーグはうまい。
けれど、『シンドラーのリスト』の時と同じでユダヤ人側からの視点しかなかった。

主人公が最後になって。これでいいのだろうかと悩むシーンをもって、スピルバーグが一方的な視点に堕していないと評価する人はがきっといるだろう。

スピルバーグもまたそのように描くことでしか、自身がユダヤ人でありながらアメリカの知識人としてアメリカに暮らしている矛盾を解決することができなかったのだろう。

ユダヤ人の側に立った映画を作ったことによりアメリカのユダヤ社会に敵対することなく、と同時にイスラエルの非情で好戦的な態度を非難することでアメリカの知識人社会への免罪符を手にいれたのだった。

しかし問題は彼が何を見、何を物語ったかにあるのではなく、むしろ彼が見ず、語らなかったところにある。

つまり、イスラエル側がなぜ非人道的な殺人を犯さなければならないかの説明はあっても、彼らに敵対するアラブ・パレスティナ側の理由についてはまったく描こうとしないことが問題なのだではないだろうか。

と、ケチをつけながらも、最後にまた同じことを繰り返すが、やはりスピルバーグは枯れても、そこらの監督より何倍もうまいし、センスもいい…

と、ここでこの話を終わらせようとして思い出したことがある。

ラスト、主人公がテロリストたちによる惨殺を想像しながら妻とのメイクラブにのめり込んでいくシーンは、意図こそ分かるものの、どんなへたくそな監督もやったことのないような下品で、醜悪なシーンだった。

スピルバーグ作品はたぶん30本くらいしか観ていないので、全部を知ったかのような口ぶりは慎みたいけれど、この人はきっと女性を描くのが下手だし、美人にも興味がないし、つまり恋愛というものにほとんど関心のない人なのではないだろうか。

それだけではなく、『ミュンヘン』を観て、この人は女性や愛に冷淡な人ではないかという疑問を持つにいたった。

といってスピルバーグがホモセクシュアルだとか、女性に冷たい・冷酷ということをいっているわけではなく、むしろ接すれば優しい感じを与える人かもしれない。
というのは人に優しい人ほど人に対する冷淡さや無関心を隠し持っているからである。

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