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Author:株鳥風月
2003年より株式投資を始める。
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“驚きに満ちた映画”『初恋』

この映画を“驚きに満ちた映画”とまずはつぶやいてみる。

なぜなら、もう30年以上前の事件でありながら、その事件の手際良さとそれに反比例するようなあっけなさ、そして今も「未解決」であること、そして事件後の犯人の完璧な沈黙とにおいて、未だにどの事件との比較も許さぬ孤高ぶりを誇っていた、あの府中3億円強奪事件の謎を、この主人公の女子高生はいきなり「事件の実行犯は私かもしれない」といともあっさりと告白して物語は始まるのだから。

さらに驚くべきなのは、映画の原作となった同名の小説『初恋』の著者、中原みすずは物語を一人称で書くことによって彼女自身が物語の主人公であること、つまり3億円事件の実行犯であることを隠そうとしないことである。

実際、主人公たちの仲間の一人で、予備校生として登場し、エピローグで、後に芥川賞作家になったと紹介される青年は中上健次に違いないと分かるし、、また彼の対談集などを読んだことのある読者なら、映画の主たる舞台となる「B」という名のジャズ喫茶がその本の中に出てきたものだと思い出すだろう。

映画はこうして、この物語が限りなく“真実”に近いものであろうことを、もったいぶることも、秘密めかすこともなく淡々と示していく。

中上健次が事件のことをどこまでを知っていたかどうかは今となっては確かめようもないけれど、彼が紀州を舞台とした「路地」ものを終えて、病を得てもう時間があまりなくなってからどうして新宿を舞台にした物語などにこだわったのかを、この映画から想像してみることは少し愉しませてくれる。

健次の娘で今は作家となった中上紀がこの映画にコメントを寄せていることが、何かこの映画により一層の色香のようなものを添えているように感じられるのは、今は健次も登場人物の多くも時間の彼方へ消え去った中で、あの予備校生がやがてもうけた子が時を越えて、今、目の前にまるで“突如”といった趣で現われ、断絶されていたと思われていた時間が実は細々ではあるにしても連続しているということを再確認させてくれたからだろうか。


ところで、この映画が驚きに満ちているのは何もそのドキュメンタリーなところだけにあるわけではない。
いや、むしろそれ以上に私はこの映画が、湛えている一種のみずみずしさこそを驚きに近い目で見ていた。

というのも映画的なるものはおそらく物語性と相性が悪いのであり、この強烈な力を放つ物語からよくあれだけの映画的な映画をつくることができたという驚きでもあった。

ブログを見ていたら、この物語についての評をたまたま見つけたのだが、その書き手によれば、主人公の少女がただの淡い恋心だけでこんなに大それた事件に加担するなんて信じられないようで、だから彼女と主犯各の学生との間にはそれ以上の何かがあったのだろうと暗に勘ぐっている風なのだ。

実際はどうだったのか知らないが、そんなことどうでもいいではないか、と私は思う。

この評を書いた人は、さらに恋を描き方が「浅い」とまでいっている。

あの3億円事件という大事件に加担する以上、それに見合った背後の何かや恋なら恋で、もっと深いものがなくてはならないはずだと思わせるのだろうか。
しかし、現実世界では人は何の「深さ」もなく、まったく取るに足らぬ理由で人を殺すこともできるし、何の「深さ」も持たずに、一瞬のクリック一つで数十億円を稼いでしまうこともできてしまう。

ある事実の裏側に物語を求める物語性こそが、小説や映画からもっとも遠いものであり、映画や小説を見損なうものであるように思う。


この映画で見過ごしてならないのは雨ではないかと私は思う。

雨は映画冒頭から降っている。
雨の音とその肌にまとわりつくような湿度がある雰囲気のようなものをつくりだしていることは確かだ。
しかし、それ以上に大事なのは雨が映画全編の細部を統御していることだ。そのことによって、この映画は非常にコンパクトで清潔感のあるものとなり得ている。

しかも雨は雰囲気といった柔らかいものとしてあるにとどまらず、物質としてその存在感を主張する。
それは、もちろん事件当日の雨のことをいっているのだが、ここでは映画をまだ観ていない人もいるので、詳細は省くが、この日の雨は文字通り事件の運命を変えてしまうかもしれないものとして(しかも2度にわたって)登場するのである。

もちろん雨はこうしてただ荒々しいものとしてだけあるわけではない。
事実、映画冒頭近くで、刑事が「最近の子は涙一つも見せない」と呟く中を警察署を出て、歩き始める主人公に降りかかる雨は、彼女が大人たちに決して見せない涙と分かちがたい繊細なものだったではないか。

この映画の繊細さはこうした雨の表情を正確に描くところに現われていたというべきだろうが、繊細な表情というなら、もう一つ忘れられないシーンを挙げるなら、それは強奪後、不安と緊張に押しつぶされそうな宮崎あおいが首謀者の男と待ち合わせ場所で落ち合うシーンだ。

男は車の中の宮崎あおいの頭に手を伸ばし、そっと触れる。
男と少女が初めて触れるシーンのこの慎ましさ。そして、この繊細さ。

彼女が待ち望んでいた男の手は雨を隔てて、雨の降らない車内の彼女の頭へと伸びてくる。

二つのものが触れると同時に雨によって隔てられている。
この雨は、その後の彼らの時間をも統御しているかのようだ。

そして一瞬間でありながら、永遠に引き伸ばされるような時間の中の彼女の微笑み。
このシーンによって映画はもう一段、高み昇ることができたと思う。

ここにおいて少女は「深い」ものとはまったく無縁な次元で、どうしてあの事件に加担したのかが何よりも強く語られている。

この映画が驚きに満ちた映画であるのは、まさしくこうしたことによってである。

さきほど「触れる」と書いた。
だが、それは触れることなのか?

触れるのではなく、むしろ重ねられるというにふさわしいこの行為は、たとえばその後に彼女の手が彼に手に重ねられ、あるいは彼女の顔が彼女自身の手の上に重ねられるというように、いくつか印象的なシーンとなって現われるが、もしこの映画の主題が消え行く時間への悼(いた)みにあるとすれば、重ねられる行為は、まさしくその悼みそのものなのかもしれない。



【後記】
映画を観終えて外に出ると雨が降っていた。
もちろん、この雨はただの雨にすぎないけれど、一瞬、この雨はこの映画の時空につながっているのではないかという錯覚に陥った。

この映画で『ナナ』の宮崎あおいではなく、『ユリイカ』の宮崎あおいが戻ってきたことが嬉しく思えた。


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